参道から神門をくぐり本殿に近づくと、1対の狛犬が迎えてくれます。
この狛犬を作ったのが江戸時代後期活躍した石工「丹波佐吉」です。

日本一の称号を授けられた丹波佐吉
丹波佐吉は、文化十三(1816)年に但馬の竹田(現在の兵庫県朝来市)に生まれました。
幼くして両親を亡くし、縁あって丹波新井村の初代難波金兵衛伊助という渡り石工に引き取られます。
佐吉は石工の道に精進しながら、土地の庄屋であった上山孝之進の元で読み書きを習いました。
佐吉が21歳になったとき、伊助に長男が生まれます。これを機に佐吉は丹波を離れ、各地の石屋を回る、渡りの石工として腕に磨きをかけながら作品を残していきました。
佐吉は30歳のころ石の尺八を見事に彫り上げました。その音色もまた見事なものであったとされています。
時の孝明天皇から「日本一」の賛辞を得ました。
その後も奈良県、三重県、滋賀県など各地に石仏や燈籠など多くの石造物を残し、狛犬作家としても近畿各地に傑作を残していくことになります。(確認されたもの21対)
慶応二年(1866)に上山家のために不動明王像を造り、その後行方が知れなくなりました。
時に佐吉数え51歳でした。いつ、どこでその生涯を終えたのかまったくわかっていません。
摩氣神社と丹波佐吉
佐吉が生まれ故郷の但馬を出て京大阪方面に向かう際、摩氣神社に立ち寄り、最後にお礼の狛犬を作ったと考えられています。
磯辺ゆう氏(当時、奈良文化女子短期大学教授)の研究論文を引用させていただきます。
奈良文化女子短期大学紀要第38号平成十九年所載『丹波佐吉の狛犬21考察』(41~42一部略)
佐吉狛犬が置かれている神社は佐吉にとって何らかの意味があるようである。大和の場合、若い頃に長く修行し、また宇陀で多くの石像物を作っている。大和には多くの知己があり、世話になった人々も多かったに違いない。そうしたところに後になって狛犬を作ったことは大いに考えられるところである。ことに斑鳩周辺と大和川要の位置周辺の神社に奉納された狛犬は、若かりし日に世話になった場所への感謝の意味があるように思われる。また柏原はふるさとであり、やはり恩になった人々がいるとろである。
しかし、園部の摩気神社はどういう関係であろうか。/佐吉の修行した場所が「大和辺、淀、伏見、大坂、諸所で修行」(上山家文書)とされていることから考えると、若い佐古が丹波を出て、中央を目指したときにたどった道筋が、丹波―淀―伏見―大和―大坂だったのではないだろうか。すると、その道筋の中で京大坂方面に出る寸前に園部摩気神社があるのである。ここで大きな願をかけ、最後にお礼の狛犬を作ったと考えると他と大きく異なる狛犬である事が理解できる。今も往時をしのばせる雰囲気の中で、佐吉の狛犬は躍動感を持ちながら立っている。(傍線引用者)
小寺慶晴氏(龍谷大学名誉教授)『京都狛犬巡り』を引用させていただきます。
『京都狛犬巡り』(ナカニシや出版1999年初版)(P185~P186)
神殿は府内最大級であり、その両横にも摂社の神殿がある。そして、それらを守るために、茅葺きの覆屋(上屋根)が作られている。維持していくのは大変だろうが、かつての神社の原型を見るようで、自ずと心が澄んでくる。太古の聖地のイメージを残す境内に照言(佐吉)作の狛犬がいる。体長約七八せ。残念ながら寄進日が刻まれていない。たてがみや尻尾は石でありながら見事に流れている。優雅であり、気品を感じさせる作品だ。迫力はやや乏しくなっているが、相原町の八神社の狛犬より完成度が高く、私はこれも文久年間の作品ではないかと推定している。/佐吉はここでも名前の後ろに自らの花押を刻んでいる。己の出自と仕事への誇りを感じさせると同時に、「日本一」の名を背負った者が、苦労の末にやっと造り上げた作品をも過去のものとして否定しながら、常に新しい境地を模索せざるを得なかった、壮絶とも言える彼の生きざまの深さを見る思いがする。(傍線引用者)
摩氣神社の狛犬の鑑賞ポイント


口をつむんだ吽像

口を開いた阿像